コンテンツ・テキストデザイナー 安達 剛士
1982年、鳥取県生まれ。
北欧インテリアショップに10年以上勤務し、鳥取、東京で約8年間店長を経験。北欧の暮らしにある本質的な豊かさに魅了され、自分らしさを楽しめる暮らし、コーディネートを多数手掛けた。
2022年より故郷の鳥取に戻り有限会社フォーリア・インテリア事業部を設立。インテリアコーディネーター資格を持ち、空間ディレクションの他、暮らしを楽しむ発信を行うなど広くインテリアに携わる。
2児の父でありながら、子どものように好奇心旺盛なインテリア愛好家。
デザインに生きた人々の物語
1940年代~1960年代は、デンマーク家具黄金期ともいわれる時代。その時代を彩った名作誕生の背景には、デザイナーを中心としたさまざまな人間関係と、私たちにとっても身近に感じられるストーリーがたくさん詰まっています。そんな人々にスポットをあて、人物相関図をもとに北欧デザインの魅力を紐解く物語です。
独自の道を歩んだ3人のデザイナー
コーア・クリントの教えを基礎とした機能的な家具デザインがデンマーク家具の主流として広まる一方、その波に乗ることなく我が道を進んだデザイナーたちがいました。彼らの存在もまた、デンマーク家具における歴史を語る上で重要なポイントです。そんな主役となったのが、アルネ・ヤコブセンであり、ヴァーナー・パントンであり、そしてフィン・ユールといった建築家たちです。3人に共通することは、みなデンマーク王立芸術アカデミー建築科出身であること。それぞれに時期が重なることはありませんでしたが、後に建築のみならず、家具デザインの業界にとっても、歴史を残したデザイナーたちです。
ヤコブセンとパントンはもともと画家を志していたという同じ経験を持ち、またユールはかつて美術史の道を志すことを考えていたといいます。時代に流されることのない自分の感性を基にする3人のデザイナーには、若くしてアートの世界に深い興味を抱いたという共通点があったのです。彼らにとって、“家具”は建築を含めた空間を構成するための大きな意味を持つピースだったことが窺えます。その独創的な家具デザインへのアプローチは、コーア・クリントの教えと一線を画すものであったことから、彼らは“非クリント派”とも呼ばれ、“クリント派”の筆頭株であるボーエ・モーエンセンらからの批判の的ともなりました。
アルネ・ヤコブセンとそれを取り巻く人たち
アリンコチェア、セブンチェア、グランプリチェアなど、〈フリッツ・ハンセン〉との協働により、瞬く間に家具デザイナーとしてもその名を轟かせることになったヤコブセン。そんな彼の作品において、SASロイヤルホテル(現:ラディソン・コレクション・ロイヤルホテル)は、建築から家具、内装における細部に渡って自身がプロデュースを手掛けたことでよく知られる事例です。エッグチェア、スワンチェアなどの多くの人に知られる名作家具の他、カトラリーやドアノブといったあらゆるものをデザインしました。その“トータルデザイン“が彼の真骨頂であり代名詞ともいえるデザインとの向き合い方。すべてのものに美しさを求めたことがよく分かります。
ヤコブセンの仕事ぶりや作品についての話題となると、「神経質」や「完璧主義者」といった言葉で語られることが多いですが、一方で、ユーモアのセンスがあり、お茶目な一面も持ち合わせていたといいます。そんな彼に関わった人々には、実際にどのように映っていたのでしょうか。ヤコブセンの歴史を紐解くと、数々の有名デザイナーとの関わりも目立ちます。
・若きハンス J.ウェグナーの才能を見いだし、自身の事務所で雇用。大きな案件で家具デザインを任せた。
・第二次世界大戦下の1942年、ポール・ヘニングセン夫妻と戦火を逃れてスウェーデンへ亡命。
・母校の後輩でもあるヴァーナー・パントンを自身の事務所で雇用。パントンもアリンコチェアの開発に携わったとされている。
など
10年に渡りデンマーク王立芸術アカデミー建築科の教授も務めたヤコブセン。海外のデザインにも目を向け、積極的に新しい素材を取り入れた彼が放つメッセージは、同時期に活躍したデザイナー、また後進たちにも大きな影響を与えたことでしょう。
概念にとらわれないヴァーナー・パントン
ヴァーナー・パントンもまた、デンマーク家具史の中において異質な存在といえます。パントンはオーデンセの学校で建築を学んだ後、デンマーク王立芸術アカデミー建築科へ進学。建築を学んだ後、心理学にも没頭したという彼が目指したのは、色が人に与える影響を踏まえ、建築、インテリア、プロダクトデザインと色彩心理学を結び付けることでした。自身としては「青」を好んで身に着けたそうですが、「赤」や「オレンジ」などの鮮やかで、見る人を別世界に引き込むような色彩も好んでデザインに取り入れたといいます。ポール・ヘニングセンのつてで1950年から2年間、アルネ・ヤコブセンの建築事務所に勤務した経歴を持ち、在籍時に携わった「アリンコチェア」の開発は、彼のその後の人生に大きな影響を与えたといえます。
フリッツ・ハンセン、ルイス・ポールセン、ヴィトラなどと協働で、家具や照明など数多くのプロダクトデザインを生み出したパントン。彼の才能はまた、エキシビジョンの空間デザインなどでも発揮されました。そんな彼に、1967年、ひとつの騒動が持ち上がります。世界初のプラスチック一体成型のチェアとして彼がデザインしヴィトラから発売された「パントンチェア」について、ポール・ケアホルムが自身の作品の盗作であると主張したのです。それに対し、パントンは反論せず、いまだにその真偽は定かではありません。パントンとケアホルム。世界に名を馳せる2人のデザイナーの間にあった遺恨は、歴史的名作への興味を惹かれる逸話です。一方で、パントンチェアの開発にも、長い年月をかけた果てしない物語がありました。(パントンチェア開発の裏側にあったストーリー「パントンチェアに秘められた挑戦の歴史」)
我が道を貫き、評価を高めたフィン・ユール
フィン・ユールにまつわる書籍を開くと、決まって目にする“彫刻”、“造形美”といった言葉。確かに彼の作品を語るのにぴったりな表現です。デンマーク家具を世界的に広め、その人気を確実なものにした立役者のひとりであるフィン・ユール。今では世界的に高い価値を認められる作品の数々ですが、その始まりは簡単なものではありませんでした。コーア・クリントの哲学が家具デザインの中心となっていた当時、従来の家具構造における概念の枠を取り払った彼の独創的なデザインは、デンマークではなかなか受け入れ難いものでした。そんな彼の評価は、1950年代にまずアメリカで高まることとなり、その後、デンマーク国内でも認められるようになった経緯があります。
アメリカで近代デザインの発展に尽力していたエドガー・カウフマンJr.と出会ったユールは、彼のバックアップを受けてアメリカを巡回した「Design in Scandinavia展」などを通し、現地で広く知られる存在となります。また、1953年に完成したニューヨーク国際連合本部ビルの信託統治理事会会議場は、ユールが内装設計を手掛け、チェア「FJ51」の他、時計「FJクロック」もデザインしました。これは、彼の世界観が一つの空間として表れる代表的な事例です。その後、世界各国に活躍の幅を広げたことで、デンマーク国内での彼への見方も変わっていきました。そんな道筋ができたのも、彼の魅力にいち早く気づいた、カウフマンJr.やニールス・ヴォッダー(Vol.5にて紹介)といった理解者たちの協力があってのことだったといえます。
ヤコブセン、パントン、ユール、三者三様のストーリーは、共通して自分の信念を貫く強さと、それを認める人たちの協力とともにあったことがわかります。北欧家具のおもしろさについて、目にするデザインだけではわからない裏側の物語を深く知ることで、より本質に迫ることができるのです。
参考:
・流れが分かる!デンマーク家具のデザイン史 / 多田羅景太・著 / 誠文堂新光社 /2019 年
・歴史の流れがひと目でわかる年表&系統図付き 新版 名作椅子の由来図典 / 西川栄明・著 / 誠文堂新光社 / 2021年
・美しい椅子 北欧4人の名匠のデザイン / 島崎信+生活ミュージアム・著 / 2003年
・フリッツ・ハンセン オフィシャルページ
https://www.fritzhansen.com/ja/inspiration/designers/arne-jacobsen
・Vitra /「パントンチェア」誕生のストーリー マリアンネ・パントンへのインタビュー
https://www.vitra.com/en-gb/magazine/details/please-have-a-seat
・Vitra / パントンチェア -ただ一人、信じる人がいれば道は開かれる