多田羅 景太
1975年、香川県生まれ。京都工芸繊維大学デザイン・建築学系助教。京都工芸繊維大学造形工学科卒業後、デンマーク政府奨学金留学生としてデンマークデザインスクール(現デンマーク王立アカデミー)に留学。同校では、オーレ・ヴァンシャーやポール・ケアホルムに師事したロアルド・スティーン・ハンセンの下で家具デザインを学ぶ。デンマーク滞在中、スカンディナヴィアンファニチャーフェアなどの展覧会に出展。2003年、同校卒業後に帰国。08年までデザイン事務所にて、家具を中心としたインテリアプロダクトなどのデザインを手掛ける。現在、京都工芸繊維大学の他、尾道市立大学でも講師を務める。著書に『流れがわかる! デンマーク家具のデザイン史』(誠文堂新光社)。2022年に開催された「フィン・ユールとデンマークの椅子」展(東京都美術館)において学術協力および会場デザインを担当。
目次
デンマーク建築界のレジェンド
アルネ・ヤコブセン(1902-1971)といえばセブンチェアやエッグチェアを思い浮かべるかもしれませんが、デンマークでは国を代表する建築家として広く知られています。コペンハーゲン市内にもSASロイヤルホテル(現ラディソンコレクションロイヤルホテル)や国立銀行といった巨大な建物があり、日常的に目にする機会が多いからかもしれません。今回はデンマーク建築界のレジェンドであり、家具や照明器具そしてドアハンドルに至るまで、建築に関連する様々なプロダクトをデザインしたアルネ・ヤコブセンについて紹介したいと思います。
画家を目指した少年時代
アルネ・ヤコブセンは1902年にコペンハーゲンで誕生しました。1914年生まれのハンス J.ウェグナーやボーエ・モーエンセンよりもちょうど一回り年上になります。子供の頃から絵を描くことが好きだったヤコブセンでしたが、美術の授業中以外は落ち着いて座っていることができず、11歳のときに全寮制の学校へと転校させられてしまいます。美術教師から絵の才能を認められたヤコブセンはその後も絵を描き続け、画家になることを目指しましたが、貿易商を営んでいた父親から強く反対されます。そこで、クラスメイトだったラッセン兄弟[i]の勧めもあり、建築家を志すようになりました。
パリ万博と未来の家で受賞
コペンハーゲンのテクニカルスクールで建築の基礎を学んだあと、1924年にデンマーク王立芸術アカデミーの建築学校に進学し、カイ・フィスカーの下で本格的に建築を学びます。ウェグナーやモーエンセンとは異なり、家具デザインの専門教育を受けていないヤコブセンでしたが、アカデミー在学中に開催されたパリ万博に木製アームチェアを出品してシルバーメダルを受賞しました。当時から造形的なセンスがあったということでしょう。
アカデミーを卒業して2年後の1929年には、旧友のフレミング・ラッセンと設計した「未来の家」が設計コンペで勝利します。円形を基本とする「未来の家」は、自動開閉する車庫や自家用ボートを係留しておく水上ガレージに加え、屋上にオートジャイロの発着台を備えており、未来への夢が広がる作品となっていました。
総合リゾート開発
「未来の家」で注目を集めたヤコブセンは、コペンハーゲン近郊の町クランペンボーの海岸沿いに位置するベルビュービーチの総合リゾート開発に携わります。ここはヤコブセンによって少年期を過ごした思い出の地でもありました。更衣室、シャワー、監視塔、アイスクリームの売店といったビーチでの施設に加え、近隣にはマットソン乗馬クラブ、ベラヴィスタ集合住宅、ベルビュー・シアター&レストランが建設されました。当時のコペンハーゲン市民にとってベルビュービーチで余暇を過ごすことは、夏の大きな楽しみであったに違いありません。
市民との対立
さらに1937年にはエリック・モラーと協同でオーフス市庁舎の設計コンペに応募し、多数の応募作の中から見事一等に輝きます。しかしながらコンペに提出した案は近代的な四角い建物で、時計塔のある伝統的な市庁舎を望んだオーフス市民から強い反発を受けました。代替案として市庁舎前の広場に独立した時計塔を建てる計画を提示しましたがこれも受け入れられず、渋々、市庁舎の屋根に時計塔を設置したというエピソードが残っています。時計塔の文字盤は遠くからでも見える様に高い位置に設置するのが一般的ですが、通常よりも低い位置に文字盤を設置したのは、ヤコブセンによるせめてもの抵抗だったのかもしれません。このように紆余曲折を経て完成した市庁舎ですが、現在は町のシンボルとしてオーフスの市民から大切に扱われています。なお、市庁舎内で使用している家具の一部は、当時ヤコブセンの事務所でスタッフとして働いていたウェグナーによってデザインされました。
スウェーデンへの亡命
オーフス市庁舎は1942年に完成しましたが、当時のデンマークは隣国ドイツの占領下にありました。ユダヤ系デンマーク人であったヤコブセンは、ヒトラー率いるナチスによる迫害に身の危険を感じ、1943年に妻と友人のポール・ヘニングセン夫妻とスウェーデンに亡命します。かねてから交流のあったフィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの紹介で、住宅協同組合の設計事務所で働き始めましたが、長続きせずに辞めてしまいました。リゾート地開発や市庁舎の設計など大きなプロジェクトに関わっていたヤコブセンにとって、住宅協働組合での仕事は少し退屈だったのかもしれません。
スウェーデンでは建築の仕事の代わりに、シルクスクリーンの技術をもつ妻ヨナの協力の下、これまで書き溜めてきた植物の水彩画をアレンジした柄をファブリックや壁紙に印刷して、ストックホルムのデパートで販売しました。幼少期から温めてきた水彩画の才能が、インテリアエレメントのデザインに活かされたのです。
スウェーデンでの亡命生活を何とか乗り越えたヤコブセンでしたが、終戦後にコペンハーゲンに戻って驚かされます。てっきり解散したとばかり思っていた自身の設計事務所を残った所員が継続しており、その様子を目の当たりにしたヤコブセンは「私の酒と顧客を所員に盗まれた」と言い放ちました。何ともヤコブセンらしい傲慢な物言いですが、内心は嬉しかったのではないでしょうか。
アリンコチェアの誕生
おかげでデンマークでの仕事にスムーズに復帰することができたヤコブセンですが、ある日チャールズ&レイ・イームズによってデザインされた成形合板の椅子を事務所に持ち込み、「こんな気軽な椅子を作りたい。しかし真似はしたくない。」と所員に向かって宣言しました。そして誕生したのが20世紀の椅子のデザインを代表する一脚でもあるアリンコチェア(アントチェア)です。その後、アリンコチェアのバリエーションモデルでもあるセブンチェアやエイトチェア(リリー)などが発表されましたが、ヤコブセンによるリ・デザインの好事例といえるでしょう。
SASロイヤルホテル
1960年にはコペンハーゲン中央駅の横に、近代的なSASロイヤルホテルが完成します。市内の一等地に突如現れた直方体の高層ビルに対するコペンハーゲン市民の評判は、あまり芳しいものではなかったようですが、その直線的な外観のホテルとは対照的に、有機的な曲面で構成されたスワンチェア、エッグチェア、ドロップチェアなどがロビーや客室用の家具としてデザインされました。その後、数回のリニューアルを経て606号室[ⅱ]を除くインテリアデザインは竣工当時から大きく様変わりしましたが、建築家アルネ・ヤコブセンを象徴する建築作品のひとつとして、国内外からの宿泊客を今日も迎え入れています。
集大成となったデンマーク国立銀行
晩年の1965年から71年にかけて、ヤコブセンにとっての集大成ともいえるデンマーク国立銀行の設計に携わります。ヤコブセンが戦前から好んで使用したノルウェー産大理石と、戦後に実践したガラスのカーテンウォール[ⅲ]によって構成されたデンマーク国立銀行ですが、異なる素材が互いに緊張感を持ちながらも見事に調和しています。広大なエントランスホールの奥には、壁面に沿うように天井から吊るされた大階段が設置されており、手前には円卓を取り囲むように6脚のスワンチェアが配置されています。デザインの国デンマークの国立銀行らしく、威厳と美しさが見事に調和したエントランスですが、そこから先へは特別な許可なしに入館することはできません。
ヤコブセンの人となり
国立銀行は3期に分けて工事が進められましたが、ヤコブセンは第1期工事完了直後の1971年3月に心臓発作で急逝します。生前はその尊大かつ強情な性格のせいでクライアントと対立することもありましたが、事務所で雇っていた清掃係に進行中のプロジェクトの模型を見せてどう思うか尋ねるなど、常に周囲からの評価を気にする側面もあったようです。ヤコブセンのように強い信念と繊細な神経がなければ、建築とそれを彩るインテリアエレメントがトータルに調和した空間を作り出すことは困難だったに違いありません。
[i] フレミング(1902-84)&モーエンス(1901-87)・ラッセン兄弟
共にデンマークの建築家・デザイナー。フレミングは、アルネ・ヤコブセンと事務所を設立。「未来の家」設計をヤコブセンと手掛けた。
[ⅱ] オープン当時のインテリアデザインを残した唯一の客室。ヤコブセン・スイートとも呼ばれる。
[ⅲ] 床や天井など建物の過重を支えない建築構造上取り外すことが可能な壁。通常、建物の周囲を取り囲むように設置される。