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2025.01.09 THU

陶磁器の里を訪ねて 〜有田〜

陶磁器の里を訪ねて 〜有田〜

コンテンツ・テキストデザイナー 安達 剛士

1982年、鳥取県生まれ。
北欧インテリアショップに10年以上勤務し、鳥取、東京で約8年間店長を経験。北欧の暮らしにある本質的な豊かさに魅了され、自分らしさを楽しめる暮らし、コーディネートを多数手掛けた。
2022年より故郷の鳥取に戻り有限会社フォーリア・インテリア事業部を設立。インテリアコーディネーター資格を持ち、空間ディレクションの他、暮らしを楽しむ発信を行うなど広くインテリアに携わる。
2児の父でありながら、子どものように好奇心旺盛なインテリア愛好家。

有田焼の産地ってどんなところだろう?

日本の伝統的な焼き物の一つとしてすぐに思い浮かぶ「有田焼」。その本場である佐賀県・有田には、毎年多くの観光客が足を運びます。町の7割近くが山と森林に囲まれ、地元の竜門峡から流れる水は名水100選にも選ばれる自然豊かな土壌を持ち、農作物の栽培も盛んです。人口は2万人弱。“やきものの町”と呼ばれるくらいだから、きっとそこに住む人たちにとっても「有田焼」は特別な存在なのだろう。そんな思いを持って訪ねました。

地元のあるある話といえば、佐賀県の多くの小中学校の給食では、「有田焼」や「伊万里焼」といった地元産の食器が使われているのだそう。そして有田町の運動会では、「皿かぶり競争」なるものが定番行事なんだとか。何と“有田焼愛”に溢れる地域なんだと感嘆します。

でも、そんな産地で実際に知ったのは、住む人たちが「有田焼」へ向ける関心は段々と低下していっているという現実でした。長い歴史の中で培った“伝統”と、これからの“未来”に向かう有田焼。現地での取材をもとにその姿を追います。

皿かぶり競争の様子

“有田焼の里”は人工的に作られた町だった

日本最初の磁器といわれる有田焼の始まりは、1616年頃。その原料となる陶石が枯渇しはじめ、困惑した朝鮮人陶工の李参平らが深山に分け入り、泉山で豊富な良質原料を発見したことが今日まで続く産業化の起源といわれています。この発見で先行きが拓けてくると、陶器よりも付加価値の高い磁器の量産が課題になってきました。

そこで藩によって取られた対策が、 日本人を中心とした826人もの陶工の窯業界からの追放と、新たな窯業地の開発です。こうして、技術の巧みな朝鮮陶工を残し、山間の谷筋に人工的に形成した磁器の専業地 (「内山地区」と呼ばれる町の東部の東半分の地域)が誕生したのです。出入り口は東西端のみに限られ、口屋番所といわれる関所を設けて管理しました。

朝鮮人陶工李参平らが陶石(磁器の原料)を発見したといわれている泉山

専業地化により、良質な原料を使った、熟練した陶工による、高品質な磁器生産、という他では真似できない生産システムの構築を実現。また陶器の製作は原則禁止、磁器の中での下級品は消えていきました。そして、波佐見や三川内といった他藩の窯業地にも接していないこの場所は、磁器技術の情報漏洩を防ぐという意味でも大きなメリットを持ちました。

松浦郡有田郷図 (安政6 , 1859)

1650年代に入ると、有田の町は新たな転換期を迎えます。佐賀藩鍋島家は、「内山」で製品の質を一定に揃え、効率的に量産できるシステムを整えました。それは、海外貿易を見据えてのことだったと考えられています。高級量産品を「内山」、そこで対応できない製品を、内山からの移住者や復帰が許された陶工を含む「外山(主に有田町西部)」でつくる仕組みです。「内山」を「外山」が補完するようなかたちで、世の中の需要に応えていったのです。

有田焼参考館展示風景

時代のライフスタイルに合わせる柔軟性

1650年代後半、有田焼が世界へ向けての大量輸出時代を迎えます。明朝滅亡による混乱で、中国磁器の輸出が困難となり、その代替品に有田の磁器に白羽の矢が立ったのです。そこで「内山」は需要の大きいヨーロッパ向け製品を強化し、有田焼は一気に世界で名を轟かせることとなります。“有田”が世界の磁器生産の中心を担った時代は、実に100年にも渡りました。

しかし1684年、中国・清朝の時代に中国磁器が再び輸出されるようになると、東南アジア向けの輸出品を多く作っていた「外山」は特に打撃を受けるようになります。そこでいち早く国内需要へ目を向け、これまで国内で磁器を使用していなかった層へ向けた製品開発に取り組み、大衆的な製品の生産へとシフトチェンジを行いました。

ヨーロッパ向けの製品「色絵花籠文皿」
アジア向けの製品 「染付龍鳳見込荒磯文碗(蒲生コレクション)」

18世紀末〜19世紀初頭、全国へ磁器が普及するようになり磁器自体への付加価値が薄れてくると、生産を中〜高級品に絞るようになります。(それが「有田焼=高級品」のイメージにつながっているといえます。)その後も、江戸、明治、大正、昭和・・・、それぞれの時代のニーズとライフスタイルの変化を捉え、その時代に求められることをかたちにしていったのが有田焼の歴史です。

ここにこそ、「有田焼」が400年以上に渡って残り続けることができた理由があるのではないでしょうか。世の中の流れを汲み、ビジネスチャンスに柔軟に対応してきた歴史は、伝統であり、これからの未来を築いていく土台ともいえます。

明治44年深川製磁株式会社の細工・絵付の様子

過去から今、そして未来の有田

時は幕末期、有田焼の中にある種のブランド化ともいえる商品開発が動き始めます。それまで有田焼は、高台内に個々の窯元などの銘を記すことはありませんでしたが、新たなニーズを獲得するため、有力な商人が銘を入れることをはじめ、それが普及し窯元や商社ごとのブランドが確立しました。そのかたちは“今”の有田焼にも通じています。

歴史ある有田焼の総合商社・百田陶園による「1616/arita japan」や、16組の世界的なデザイナーとのコラボレーションで誕生した「2016/」といった新ブランドが、再び有田焼を世界へ発信すべく立ち上げられました。商社、デザイナー、窯元が一体となって世界のスタンダードを目指す製品は、各国から高い評価を得ています。これは有田焼の新たな形のモデルケースともいえます。

1616/arita japan
2016/

有田焼の新たなファンの創出は、観光ビジネスの側面からも取り組まれています。100年以上に渡って続く「有田陶器市」は毎年全国から多くの人が足を運ぶ一大イベントです。それに加えて、有田焼卸団地協同組合が運営するショッピングモール「アリタセラ」(旧:有田陶磁の里プラザ)も、有田焼専門店が軒を連ねるほか、レストランやホテルもあり、たくさんの人で賑わいます。また、かつて磁器生産の一大拠点となった「内山」は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、美しい町並みとともにその歴史を物語ります。

“産地”が抱える課題を知ること

400年以上もの間、その時代に応じたターゲットの最適化によって続いてきた有田焼の歴史。そんな有田焼が抱える問題は、全国の産地も当てはまる「次世代の担い手不足」です。1881年に日本初の陶器工芸学校「勉脩学舎」を開校した有田。そこには、「日本の工芸品が西洋に対抗するには、世界に通用するデザインが必要」との想いがありました。その後身が1985年に設立した徒弟学校で、現在の佐賀県立工業高等学校に引き継がれています。

有田の町の主要産業であった有田焼を守り続けるため、100年以上前から後進育成に取り組まれていました。それでも時代は変わり、バブル期頃を境に有田焼の関係人口は減少の一途を辿ります。

2016年に計画された有田焼創業400年事業は、有田焼の“次なる100年”を見据えたものです。有田焼の新しい価値の創出、伝統を基にした有田の再評価、また未来のクリエイターを育成するための土台を築こうとするものです。新商品の開発や個人作家へ補助金を支援するなど行政としてのバックアップや、地元小学校での絵付け体験の実施など、その土地で生まれ育つ環境からも有田焼へ興味を深められるような取り組みも行なわれています。

私たちが日常で手に取り、使う道具。その一つ一つにこんなストーリーがあるとしたら、きっと道具との向き合い方も変わっていくはずです。


参照:

有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館展示ガイドブック

ARITA EPISODE2 by SAGA PREFECTURE

佐賀県立図書館データベース

協力:

有田町歴史民俗資料館・有田陶磁美術館

有田町

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