Reading

2025.09.25 THU

名作北欧家具を生み出したデザイナーたちの「人となり」 VOL.9 ボーエ・モーエンセン(Børge Mogensen)- 前編

名作北欧家具を生み出したデザイナーたちの「人となり」  VOL.9 ボーエ・モーエンセン(Børge Mogensen)- 前編

多田羅 景太

1975年、香川県生まれ。京都工芸繊維大学デザイン・建築学系助教。京都工芸繊維大学造形工学科卒業後、デンマーク政府奨学金留学生としてデンマークデザインスクール(現デンマーク王立アカデミー)に留学。同校では、オーレ・ヴァンシャーやポール・ケアホルムに師事したロアルド・スティーン・ハンセンの下で家具デザインを学ぶ。デンマーク滞在中、スカンディナヴィアンファニチャーフェアなどの展覧会に出展。2003年、同校卒業後に帰国。08年までデザイン事務所にて、家具を中心としたインテリアプロダクトなどのデザインを手掛ける。現在、京都工芸繊維大学の他、尾道市立大学でも講師を務める。著書に『流れがわかる! デンマーク家具のデザイン史』(誠文堂新光社)。2022年に開催された「フィン・ユールとデンマークの椅子」展(東京都美術館)において学術協力および会場デザインを担当。

国民的家具デザイナー

控えめなデザインながらデンマークの国民的な椅子。そんな椅子を生み出したのが、デンマークを代表する家具デザイナーのひとり、ボーエ・モーエンセン(1914-1972)です。モーエンセンが手がけたJ39は「庶民の椅子」として多くのデンマーク人に親しまれ、今なお多くの家庭や公共空間などで使われています。

20歳で木工職人に

モーエンセンは、ユトランド半島北部の町オールボーで三人兄妹の次男として誕生しました。若いころから木工に興味があったモーエンセンは17歳のとき地元の木工職人に弟子入りし、20歳の時に職人試験に合格しています。そして21歳になった1935年に、首都コペンハーゲンへと引っ越しました。

ウェグナーとの出会い

コペンハーゲンに身を置くことでデザインの必要性を感じたモーエンセンは、1936年に美術工芸学校に入学し、本格的に家具のデザインを学び始めます。美術工芸学校では、生涯を通じて交友を深めることになるハンス J. ウェグナーに出会いました。ともにユトランド半島出身である二人は意気投合し、互いに切磋琢磨しながら家具デザインについて学びます。当時の美術工芸学校は、コペンハーゲンの工芸博物館(現デザインミュージアムデンマーク)の一角にありましたが、博物館に収蔵されていたチェアコレクションは彼らにとって生きた教材となったに違いありません。

ウェグナー(左)とモーエンセン(中)

クリントの門下生として

美術工芸学校を卒業したモーエンセンは、デンマークモダン家具デザインの父ともいわれる、コーア・クリントが教鞭を執っていたデンマーク王立芸術アカデミーの家具科に進学します。クリントが提唱していたリ・デザインと数学的アプローチに基づく家具デザインの方法論を学んだモーエンセンは、キャビネットメーカーズギルド展においても若手デザイナーの筆頭として注目を集めるようになりました。そしてデンマーク王立芸術アカデミーを卒業した直後の1942年には、当時FDB(デンマークの生活協同組合)の顧問を務めていた建築家ステーン・アイナ・ラスムッセンからの推薦を受け、若干28歳にしてFDBモブラー[i]のデザイン責任者に抜擢されます。

コーア・クリント

庶民のための椅子J39

モーエンセンはFDBモブラーでもクリントの下で学んだデザイン方法論を実践し、庶民のための家具をデザインしていきます。1947年にはシェーカーチェア[ⅱ]をリ・デザインしたJ39を発表していますが、デンマークではフォルケストーレン(庶民の椅子)という愛称で呼ばれており、現在でも国民的な椅子として広く親しまれています。どのような空間に置いても馴染みやすく、静かに椅子としての役割を担うJ39は、日常の生活道具を目指したモーエンセンの思いが結実した作品といえるでしょう。

新たな挑戦

FDBモブラーでは様々な制約の中で、庶民のための家具をデザインしたモーエンセンでしたが、1950年にFDBモブラーのデザイン責任者を辞職します。FDBモブラーを辞めたボーエ・モーエンセンは、自身のデザイン事務所をフレデリクスベア地区のアパートに構え、FDBでは取り組むことのできなかった中間層向けの家具のデザインを積極的に行うようになりました。1950年のキャビネットメーカーズギルドによる展覧会で発表されたハンティング・チェアは、その後のモーエンセンの方向性を明確に示しています。オーク材のフレームに、厚手の革でできた座面と背もたれをベルトで固定したこの椅子は、素材の選定も加工の方法もFDBモブラー時代とは明らかに異なる作品でした。このオーク材と厚手の革の組合せは、フリーランス時代のモーエンセンを象徴する要素のひとつとなり、いくつかの作品を経て1958年に発表されるスパニッシュチェアへと繋がっていきました。

アンドレアス・グラヴァーセンとの協働

その後もモーエンセンは順調にクライアントを増やしていき、量産を前提とした家具メーカーから新製品のデザインを次々に依頼されます。なかでもモーエンセンにとって最大のクライアントとなったのがフレデリシアファニチャーでした。当時のフレデリシアファニチャーの社長、アンドレアス・グラヴァーセンからデザインの依頼を受けたモーエンセンは、多忙なこともあり当初協力を渋っていたそうです。しかし、どうしてもモーエンセンの力を必要としていたグラヴァーセンは、モーエンセンの妻アリスを説得し、モーエンセンの首を縦に振らせたというエピソードが残っています。

グラヴァーセン(左)とモーエンセン(右)

コペンハーゲンの喧騒を離れて

1950年の事務所設立以降、休む間もなく働き続けてきたモーエンセンですが、1960年代の後半頃から日々の忙しさに疲弊していきます。コペンハーゲンの喧騒を離れ、生まれ故郷に戻って自分のペースで仕事を続けたいと考えるようになったモーエンセンは、故郷のリムフィヨルドに土地を購入して終の棲家を建て、そちらに移り住みました。しかし残念なことに、そこで過ごした時間は長いものではありませんでした。悪性の脳腫瘍に侵されていた彼は、1972年に他界してしまったのです。58歳という若さで亡くなったモーエンセンでしたが、彼がデンマークのモダン家具デザインに残した足跡は大きく、特にデンマークの庶民のライフスタイルを変えた彼の功績は現在もなお引き継がれています。


[i] 生活協同組合FDBの家具部門。庶民のための家具を開発し、生活協同組合のネットワークを通じて販売していた。

[ⅱ] 19世紀を中心にアメリカ東北部に定住したキリスト教プロテスタントの一派シェーカー教徒が、自給自足の生活を行うコミュニティの中で使用していた椅子。機能性と実用性を重視したシンプルなデザインが特徴。

fremtiden

「fremtiden」はデンマーク語で
「未来へ」を意味する言葉。
私たちの決意と願いを込めて名付けました。

携わるすべての人たちが心豊かに過ごすために
「過去〜今〜未来」への道のりを
美しいところも、今起きている課題も
すべて正直に、皆等しく伝えます。

お店を通して、育てる人、作る人、使う人
みな理解し合い
ものにまつわるすべてを、
大切に丁寧に愛着をもって作り
使い、育て、次の世代へ
繋げていくことを願っています。

Page
Top